2011年6月11日 | |
中村 桂子(生命誌研究者)、若一 光司(作家)、新宮 晋(アーティスト) | |
それではトークを始めさせて頂きます。どうかよろしくお願い致します。 今日は私、お天気のことも含めて、皆さんに来て頂けたことも含めて、大変幸せな気持でおります。ここに2人のゲストをお招きしまして、中村 桂子さん、若一 光司さんです。 まずですね、なんでこんな所でこんなことを始めたかという話ですが、私はこの奥でアトリエを構えておりまして、もう20年近くになります。いつもこのあぜ道を通り抜けながら、いいとこだなあ、いつ来ても季節ごとにいいなあと思うんですね。これをまあ単純に自慢したい、何かやったらみんな来て下さるかな、いい所でしょう、楽しんで下さいよというのがきっかけで、田んぼの中でちょっと作品を立てて展覧会をしたらいいかもなと思ったのです。 |
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左から 新宮 晋 中村 桂子 若一 光司 |
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若一 光司です。私は今、ちょうど60才で、新宮さんと同じ豊中市で生まれ育っているんですが、子供の頃は身近に田んぼがいっぱいありました。私にとって、田んぼとの出会いというのは、その後の人生に対して決定的な影響を持ったと思うんです。 物心ついた時から、田んぼ、特に今時分の水を張った、田植えの後の田んぼが大好きです。何故大好きかと言いますと、そこで色んな不思議な生き物と出会えるからです。 大人になってからの私は、化石の採集を趣味とするようになり、特に古生代の化石、三葉虫なんかを探して、日本中の化石産地を旅しましたけれども、私のそういう「生き物に対する関心や興味」を最初に育ててくれたのが、田んぼ、とりわけ、この水田でした。今日はそういうことで、こういう機会を持つことができて、本当に私も幸せな気持でいます。 |
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中村でございます。よろしくお願いします。 |
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今日おいでの皆さんもそれぞれ田んぼとの付合いがおありかと思います。今の農業の現状というのは、全く自然の田んぼとは言いかねるようなところがあるかもしれませんが、それでも田んぼの素晴らしさ。田植えから稲刈りまで、その季節の変化の中には、今日はたまたま降りませんでしたが、雨の季節もありますし、今ここではホタルが大変きれいなんですが、ホタルが飛び交う季節もあります。 田んぼがまるでお米を作る工場みたいに、機械的にきっちり生産出来るんじゃなくて、思い掛けない日照りがあったり色んなことがあって稲を育ててきた。その中で人間は、特に日本人は、田んぼを中心に文化を育ててきたと思うんですね。そんなことで、ちょっと雀おどしとか、何とかもどきを見て頂く場所として会場を設定しましたが、本当はこの田んぼの魅力を、今日だけじゃなくて、リピートして見に来て頂きたい。その間どんどん変わっていく田んぼの様を楽しんで頂ければ、本当に嬉しいですし、そんなことを考えています。 |
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「思い掛けないこと」とおっしゃいましたでしょう。自然はそうなんですね。 今、太鼓を後の方で叩いて下さったので後を見たら、丁度その時にあれ動いたんですよ、新宮さんの作品。動いてましたよね、あの時。今止まってますでしょう。ちょっと出来過ぎだとは思うのですが、この思いがけなさが面白いですね。 |
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作者と同じように、調子者なんです。 |
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でもね、こういう思い掛けない面白さは、建物の中だったら無かったことだろうなと思って。本当にすごいなーと思いました。 |
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中村先生が「自然には想定は無い」とおっしゃいましたが、まさにその通りで、私は、想定外ばっかりをねらっておりますもんですから。 |
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ちょっと個人的な体験を離れて、水田の歴史みたいなことを振り返ってみますと、日本列島に暮らす人々がいろんな野生生物との関係を深めてゆく過程において、水田がはたした役割には,たいへん大きなものがあると思うんですね。 考えてみれば、田に水を張るということは、人工的に湿地帯を作る、ということなんですね。湿地帯というのは、多くの野生生物にとって、本当に暮らしやすい、天国のようなもんです。そこにはいろんな微生物が繁殖しますし、魚や貝やエビやカニも生息しますし、それを狙って多様な鳥も飛来する。さらには、魚介類や鳥を狙って、いろんな動物もやってくる。そうしたことを考えると、日本列島で暮らす人々がさまざまな野生生物と密接に触れ合う、その大きな出会いの場であり続けたのが、水田だったと思うんですね。 |
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自然と言う時、何も手を入れないことを思いますよね。でも私たち日本人の大好きな自然って、田んぼのある風景なんですね。野生のちょっと怖い自然より好きなんです。 |
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いま中村先生がおっしゃったことに関連して、老子や荘子の言葉を思い出しました。 いま先生がおっしゃった、身近な田んぼとか、目の前に広がっている山里の自然なんかは、人間の行為や働きかけの結果として成立している「有為自然」なんですね。その区別は老子、荘子の時代から存在していたけど、「有為自然」に慣れきった感覚からすると、無為自然というのはやっぱり、どこかに怖さを秘めて見えますよね。 |
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大変面白い話だと思いますが、この自然というものを、どのように捉えるかという中に、やはり西洋的な捉え方と、日本人の伝統的な捉え方みたいなものがあると思うんですよ。 |